アントニオ猪木氏が亡くなりました。ツイッター上は各界から追悼のメッセージであふれかえっています。
リング外では借金問題で監禁されたり、永久機関の発明などの新ビジネスにカネをつぎ込んで失敗したり、色々とトラブルもある方でした。マスコミもことあるごとに大いに彼を叩きました。それにも関わらず、これだけ多くの人から追悼のメッセージが集まるのは何故なのでしょうか?
おそらく、多くの人が直接的に、また間接的に(書物やテレビなどを通じて)猪木氏の言動から強いメッセージを受け取り、勇気づけられたためではないでしょうか。
晩年の彼の得意のメッセージは「元気ですか、元気があれば何でもできる」というもので、至極当たり前のことでした。しかし猪木氏が言うと、その言葉に魂がこもるためなのか、聞くものに自然と力が湧いてくるのでした。
猪木氏の人生を振り返ると、失敗もかなりの数になります。
1966年に日本プロレスを離れ、豊登氏に誘われて東京プロレスを立ち上げるも失敗、71年には会社乗っ取りの汚名を着せられて、日本プロレスから追い出されています。
並みの人物なら、こうした事態に一度でも巻き込まれたら、そこで終わりになってしまう方も多いことと思います。まして新たなチャレンジなど期待すべくもありません。実際、上記のトラブルを機に廃業したレスラーも少なくないのです。
知名度を生かして、国会議員になったこともありましたが、彼のゆくところ、常にマスコミからの厳しいバッシングが付いて回りました。特に戦時下のイラクや北朝鮮への訪問はスタンドプレイと決めつけられて厳しく批判されたものです。
しかし、彼のイラク行きで、囚われの身にあった日本人が解放されたのは事実であり、これは猪木氏の大きな実績といえます。
こうした失敗、批判にも関わらず、彼は自らの目標へのチャレンジをやめなかった。そうした彼の不屈の生きざまが多くの人の共感、憧れを生み、彼のカリスマ性を不動のものにしたのではないでしょうか。
多くの人は一歩一歩の努力で目標に近づこうします。しかし人生には地味な一歩一歩だけではなく、時には一か八かのジャンプが要求されることもあります。
しかし、多くの人はそのジャンプを躊躇します。今まで営々と地道に積み上げてきた実績が水の泡となる可能性があるからです。
そういう場面にあっても猪木氏は一か八かの勝負を恐れなかった、逡巡せず、敢えてジャンプすりことを選んできたと感じます。
確かに持ち前の「燃える闘魂」がそうさせたかもしれず、またあらゆる壁を破っていくような強運を生まれながらに備えた人物だったのかもしれません。
いずれにせよ、彼の「敢えてチャレンジする」という生き方が多くの人の心を勇気づけ、励まし続けたのではないでしょうか。
多くの壁を克服してきた猪木氏ですが、その中でも乾坤一擲の大勝負だったのが1976年に行われた対モハメド・アリ戦という異種格闘技戦でした。
この試合は15ラウンド戦って引き分けとなり、あまり見せ場も無かったことからマスコミからは「世紀の凡戦」などと揶揄されました。
しかし格闘技のプロに言わせれば「これこそが真剣勝負」と評価する意見が多く聞かれました。私も同感です。
この試合では、アリ側から猪木氏のファイトに対して厳しい条件が付けられました。
例えばタックル、投げ技、関節技など多くのプロレス技の使用が禁じられたというのです。そして、そのルールも私が知る限りでは公開されませんでした。
プロレスファンだった私も当時、その試合をテレビでつぶさに見ましたが、このルールのことは知りませんでした。だから、猪木にとってもっと効果的な戦い方があったのではないか、と当時は思ったものでした。
もしそうしたルールが無ければ、この勝負は必ず猪木が勝ったであろうと今も信じています。
しかし世界的な知名度を誇るアリからすれば、当時無名の1プロレスラーと対戦するメリットもあまり無かったのかもしれません。まして、そんな試合で怪我でもしたら、大変な損失となります。
であれば、いささか不公平とも思えるルールを押し付けたことも、アリの立場を考えれば理解できなくもありません。
一方の猪木は、不公平なルールを飲まされた挙句、マスコミから厳しく批判された上に、莫大な借金を背負うことになってしまいました。
こうした損失面は戦う前からあらかじめ予想されていたことでもありました。当時のプロレス界で猪木氏のライバルだったジャイアント馬場氏だったら絶対にやらなかった試合でしょう。
しかし猪木にとって、このアリ戦が後の彼にとって大きな利益をもたらすことになります。
「アリと戦った男」として、その名をプロレス界だけではなく、世界の格闘技界において不動のものにしたのです。その後の猪木氏の快進撃は歴史が物語る通りで、彼は乾坤一擲の大勝負に敢えて挑戦し、それに勝ったと言えそうです。
猪木は1943年2月20日生まれなので、九星気学では三碧木星という星になります。20歳代の若い時期から頭角を現す早咲きの星で、ロシアのプーチン大統領、小池百合子東京都知事が同じ星です。
アリ戦が行われた1976年は、猪木の三碧木星は「整備運」(基本を守り、信用第一に動くべき時期)に当たっていました。
もし一年早く75年に試合をしていたら、彼の運命も大きく違っていた可能性がありました。
というのは75年は三碧木星にとって「停滞運」(不測の事態が多く、ツイていない時期)に当たっていたからです。この運気の年は、気学の9年周期で最も衰運の時期となっています。
76年は、75年の停滞運の後、運気が徐々に安定しつつある時期に当たっていたのです。
おそらく猪木はこうした自分の運気のサイクルを知らなかったでしょう。しかし、自ら意図せずとも、大勝負の時期が、運が改善する時期に自然に当たってしまうあたり、希にみる強運を持った人物だったとも感じます。
失敗を恐れずに、あらゆることにトライした人生、まさに完全燃焼の人生です。私自身も猪木氏に勇気、ヤル気を頂いた一人です。ご冥福をお祈りします。
三碧木星の人とは:1916年、1925年、1934年、1943年、1952年、1961年、1970年、1979年、1988年、1997年、2006年、2015年の各年の立春以後、翌年の節分の前日までに生まれた人。