京セラ、第二電電(現KDDI)の創業者の稲森和夫氏が亡くなりました。それ以外にも、日本航空を再建するなどカリスマ経営者、経営の神様とも言える人物です。
1960年代の高度成長期のカリスマ創業者といえば本田宗一郎氏や松下幸之助氏などが挙げられるでしょう。また現在では、日本電産の永守重信氏やソフトバンクグループの孫正義氏などが挙げられそうです。
稲盛氏はどうかと言えば、現在と高度成長期の中間である1980年のバブル期を代表するカリスマ創業者という位置づけになりそうです。
稲盛氏のビジネス上の輝かしい実績、足跡については、今日以後、数多くのマスコミが「これでもか」というくらいに書くと思われるので、それには触れません。
私も20-30歳台の若い頃は所謂「成功者」を目指して、かなり数多くの成功哲学関連の本を読みましたが、そこで必然的に出会ったのが稲盛氏でした。
個人的にお会いしたことはありません。あくまで、彼の著作や講演のテープを通しての間接的な出会いです。
成功哲学の本などに投資したのは主に1980年代後半の所謂バブル期でしたが、当時は景気が良かったせいもあり、色々な新興企業が有名な講演家を集めて、顧客向けに講演会を頻繁にやっていました。
そうした講演者の中でも魅力を感じたのが企業などの創業者でした。同じ社長でも、創業社長というものは、サラリーマンが徐々に出世した大企業の雇われ社長とは全く違った存在です。
非常に個性的、カリスマ的な人が多いのですが、自分の信じてきた道を迷わずに突き進んで現在の地位を得た-という自信に裏付けされたものだったのでしょう。
私が講演を聞いた中で、創業者の魅力を最も感じたのは徳洲会病院の創業者である徳田虎雄氏でした。
自信、勇気、パワーに溢れ、行動力抜群、口八丁手八丁、まさにファイターというイメージで、創業者の鏡のように思えました。目標達成のためには、敢えて抗争も受けて立つという印象でした。
徳田氏は国会議員になってからも、同じ選挙区のライバルである自民党の安岡興治氏との間で、徳之島の住民を2分して「食うか、食われるか」の激しい抗争を繰り返しました。
そうした徳田氏の「ファイター」のイメージとは、同じ鹿児島県出身の創業者でありながら、稲盛氏は全く違っていました。
では稲盛氏の成功哲学とはどういうものだったのか? これは私自身の独善的な解釈ですが、自らの至らない点を徹底的に改善していく-というものだったと思います。
自らの製品の欠点を徹底的に改善することで、品質、競争力が向上し、販売も好調となり、自ずと道が開けていく-。
ライバルとの抗争、声高な自己アピール、派手なスタンドプレイなどとは全く無縁な、自分自身との闘いの地道な繰り返しです。
平凡なことの繰り返しであっても、正しい方向で努力を続けていれば、道は自ずと開ける-ということだったのかもしれません。
また彼に関する本で印象的だったのは、洋式トイレのエピソードです。
市場開拓のために初めて米国に行く直前に、稲盛氏は洋式トイレのある知人宅を訪ねて、その使い方を学んだとのことでした。当時、洋式トイレは珍しい存在だったのです。
この話を聞いて「稲盛氏の小心者ぶり」と呆れる方も多いのではないでしょうか。
しかしながら、このエピソードは稲盛氏の先を読む力、周到さを強く示唆したものとも言えます。米国に行って、初めて洋式トイレに対面して、右往左往しているようでは、ビジネスの成功などおぼつきません。
いずれ直面するであろうトラブル、問題を事前に察知して、それに対応した行動だったとも言えます。
歴史上で大をなした人物には小心と思えるほどに周到な人が多いのも事実です。
戦国時代を最後まで生き延びた徳川家康も、戦ではほぼ無敗を誇った武田信玄も、実は相当に用意周到な人物であった、言い換えれば小心者であったことが知られています。
ところで、カリスマ創業者の後継者問題については、いろいろと混乱が多い(日本電産、ソフトバンクグループ、ファーストリテイリング(ユニクロ)等々)のですが、稲盛氏については、そうした事例をあまり聞いたことがありません。
この事実も、稲盛氏の先を読む力、周到さを示すエピソードの一つと言えそうです。
ここ数年は、稲盛氏の経営・人生哲学などが過剰にもてはやされ、その存在が「神格化」されるようになったこともあり、へそ曲がりな私はいささか辟易していました。
しかし若い時分には著作などを通して稲盛氏から多いに学ばせて頂きました。ご冥福をお祈りしたいと思います。
稲盛和夫氏、1932年1月21日生まれ、六白金星。
六白金星の人とは:1922年、1931年、1940年、1949年、1958年、1967年、1976年、1985年、1994年、2003年、2012年の各年の立春以後、翌年の節分までに生まれた人。