人の運命はあらかじめ決まっているのか、それとも自分の努力次第で変えられるものなのか-多くの方が一度は考えたことのある命題だと思います。
自分自身は「運命は大方は決まっている」と思っています。しかし自分の運勢については、かなり柔軟に考えています。
何か受け入れがたいことが起こった時に「これも自分の運命だ」として諾々とそれを受け入れられる人、受け入れられない人、色々だと思います。
受け入れられる人はそれで良でしょう。今後も「これが自分の運命だ」と受入れて生きていくのも悪くありません。松下幸之助翁も、運命や環境を変えようとあがくよりも、自分に与えられた舞台を「もう、これしかない」として、まずは受け入れるところに人生の上達がある―と指摘しておられます。
しかし実際には自分も含めて、諾々として受け入れられない人が多いのではないでしょうか。また「自分の努力が少しは人生に反映されてほしい」と思う人が多いことと思います。特に若い人はそうでしょう。
そう思うのであれば「人生は自分の努力次第で変えられる」ことを信じて、努力を続けていけばよいでしょう。
自分自身の若い頃を思い出しても「こんな運命はいやだ」と考えて、現状を受け入れることなく、悪あがきと言ってよいような努力をしたこともあります。
今振り返ってみて、その奮闘努力が相当に報われたとは必ずしも思いません。やってもやらなくても、結果としては、大して変わらなかったのではないか-と思うこともあります。しかし自分の過去の奮闘努力について、後悔はありません。
この「後悔はない」というのが大事だと感じます。もし自分が若い時分に「これが自分の運命だ」と無理やり自分を納得させて、努力(悪あがき?)をしないでいたら、おそらくは、年をとってから後悔していただろうと思います。「何故あの時に自分は敢えてトライしなかったのか」と。
自分自身の経験からしても、やって失敗したことを後悔するよりも、やるか否か迷った末に、やらなかったことを後悔する方がずっと多いのです。こう考えると、将来、年をとって後悔しないためには、自分のできることはすべてやってみた方がよいのかもしれません。
かといって「人生、運命は自分の努力次第」との考えにも全面的に与することはできません。こういう思想は、特に男性、若い人、時流に乗った人に多く見られます。
しかし、人生は「努力が万能」(かつての自分もそう考えていました)と断じられるほど簡単ではないことは、ある程度、年齢を重ねれば自ずと分かってきます。音楽、絵画といった芸術やスポーツの分野では特にそれが言えます。
また「人生は本人の努力次第」と決めつけてしまえば、うまくいかなかった時には「自分の努力が足りなかった」という結論になりがちで、常に自分を責めることになります。そういう生き方はつらいですよね(こういう努力至上主義の上司や親を持った人は本当にしんどいだろうと同情する次第です)。
というわけで、自分自身は「運命の大筋は決まっている」としながらも、それを受け入れられない時は大いに努力(悪あがき)して現状を変えようと努力する。しかしうまくいかない時には一時的に撤退して「これも運か(下参照)」と言って、自分の努力不足を責めたりしない-ということです。
こういうと、自分の都合良いように、時に応じて無節操に運命への考え方を変えている-という批判もあるでしょう。確かにその通りです。しかし自分自身の運勢ですので、自分の考えたいように考えてよいのではないでしょうか。
「運命はあらかじめ決まっているのか」という命題に必ずしも答えられなかったとは思いますが、自分の思いを書かせて頂きました。
★「これも運か」ですが、源氏と戦った斎藤別当実盛が断末魔に残した言葉として知られています。
老将として源平合戦に参加した実盛は、乗っていた馬が稲の切り株につまづき、それが原因で討ち取られてしまいました。実盛ほどの人物でも、自分自身の最後については「自分の不注意」ではなく「運」のせいにしているのは注目されます。
実盛の後日譚ですが、彼の念がウンカ(運か)という虫に変じて、穀物を食い荒らし、人々を苦しめることになりました。そのため、愛媛県のある地方では、現在でも実盛の霊を慰め、虫害が発生しないように「実盛送り」というお祭りを続けているということです。