どんな株でも買えば上がった時代
最近、書店ではバブル期に関連した書籍が人気を集めているようです。あれから30年、当時の関係者も亡くなったり老いたりしており、後世のためにも、ここいらで何らかの整理が必要ということなのでしょう。
バブルと言えば、私が始めて株を買ったのは1989年11月でした。同年12月末が日経平均の歴史的ピークとなったので、今思えば非常に悪いタイミングだったわけです。
当時はいわゆる1980年代後半のバブル期です。1985年秋のプラザ合意は急激円高を引き起こしましたが、政府・日銀は景気への悪影響を最小化するために、強力な予算措置や金融緩和を実施しました。そのおかげもあり内需産業を中心に景気は持ち直し、株価もほぼ一本調子で上昇しました。
当時私は外資系の金融経済調査会社でエコノミストとして働いていましたが、景気が良かったこと、加えて人不足の深刻さもあり、1986-87年あたりは年二回の昇給がありました。今思うと、夢のような話ですね。
1980年代後半のバブル期は、金融緩和が特に強力だったために、業績とは無関係にどんな株でも、買えば上がるという状況でした。私の友人も証券会社の言われるままに株を買って、大きな利益を上げていたこともあり、私も株投資を始めることにしました。
エコノミストとして日本経済全体のことは少しは分かっているつもりでしたが、株式市場、企業業績については全く暗かったので、証券会社の言いなりに株を買うことになりました(これは一番やってはいけないことですよね)。
株価の右肩上がりは「歴史的真実」
ただエコノミストという仕事の影響もあり、株を買うにあたり、いくつか懸念がありました。一つは、株価は既にかなり高くなっており、そろそろ天井ではないか、上昇余地は余りないのではないか—という点。同年末の日経平均は3万8900円で、1985年末(1万3100円)のほぼ3倍になりました。
もうひとつの懸念は、日銀が既に地価・株価などのバブルを懸念して金融引き締めに入っていたことです(C1参照)。当時の政策金利だった公定歩合は史上最低の2.5%が長く続いていましたが、1989年5月には3.25%、10月には3.75%まで引き上げられました。本当であれば、ここで株価の調整があるはずです。金融引き締めで、市中にあるマネーの量は縮小するはずですので「需給関係」で見た場合、株価に下落圧力が生じるはずです。しかし当時の市場の雰囲気は2回の利上げをものともせず、その後も株価は上昇し続けました。
当時言われていたのが、所謂ニューエコノミー論です。「日本の株価は、金利とは無関係に上昇が続くという新たな局面に入った」というのです。後に全くの誤りであることが判明しますが、洋の東西を問わず、このニューエコノミー論が出てくると相場も終わりに近づいたことを示すようです。
当時若手だったとはいえ、エコノミストとして勤務していたのですから、日銀の引き締めは気になります。そこで証券会社の人に、その質問をしてみました。帰ってきた答えは「大丈夫です。日本の株価は数年下がり続けることはありますが、持ち続けていれば必ず上がります。歴史が証明しています」というものでした。たしかに1989年までの株価チャートを見ると、一時的に株価が下がることはあっても、数年後には右肩上がりに復帰しています(C2参照)。それが当時の「歴史的真実」だったわけです。
この「歴史的真実」と金融引締という「需給関係」のはざまで、私の心も揺れましたが、結局は証券会社の言い分を信じて株をかうことにしました。市場に悲観ムードは全く無く「年明けの1990年には株価は4万円台へ」というのが当時の雰囲気でした。
歴史的転換点だった1989-90年
しかし1990年に入ると、株価は予想に反して下げ続けました。外資系証券の売りが呼び水になったとの報道もあり、大蔵省(今の財務省)あたりが、その外資系証券に注意するということもあったと記憶しています。日本の当時の資本主義というのは、まだ官の介入を許すものだったわけです。
日経平均は同年9月末には2万0984円にまで下落。前年末のほぼ半値です。ここに至って私も、半値になった株を手放しました。その後も証券会社が予想したように「2-3年経てば日本の株は右肩上がりに復帰する」のか注視していましたが、結局それは実現しませんでした。それから30年程たった現在も日経平均はピークの半分の水準にとどまっています(C3参照)。
1989年は昭和天皇が崩御され、昭和から平成に代わった年だったわけですが、株式市場にとっても歴史的転換点だったわけです。私は株投資で損失を被りましたが、痛みを伴いながらも、その歴史的転換点を目撃、体験できて良かったと思っています。今こうして、当時の回想ができるわけですから。
損失が出たとはいえ、それがあまり甚大でなかったこともラッキーでした。当時の私の上司はキャピタルゲイン狙いでリゾートマンションを買いましたが、数年後に3分の1の価格で手放したそうです。こうしてみると、エコノミストだから「投資に強い」「市場に精通している」「カネが貯まる」ということは全くありません。カネに縁があるかどうかは、また別の話のようです。
相場を動かすのは歴史的事実よりも需給関係
この損失を通して、いくつか学ぶところがありました。ひとつは、市場などで「歴史的真実」と「需給関係」が相反した場合、需給関係が勝つ—ということです。「需給関係」の法則を信じて、利上げのあった1989年5月から10月までに株を売った人(C1参照)は確実にもうかっていたと思います。また1989年という年は、九星気学的にみると、私にとって「9年に1度の大底」に当たっていました。後で気づいたのですが、やはり判断に狂いが生じていたのかもしれません。
しかしなぜ市場は、2回の利上げを無視するまでに加熱してしまったのでしょうか。一つには日銀の金融引き締めが遅れたことが要因だったと言われています。本来なら1987年10月あたりで一度、利上げしたかったらしいのですが、世界的な株価大暴落を伴う「ブラックマンデー」が起きたので、それができなくなったというのです。その為に、当時史上最低だった政策金利(2.5%)が長期化してしまったのです。利上げが遅れて、その後のバブルを引き起こしたことが、日銀幹部の間では今でも痛恨事として記憶されているようです。
思い知った日銀金融政策の怖さ
日銀は、株価崩落後も引き締めを継続しました。1990年3月に政策金利は5.25%に、同年8月には6%にまで引き上げられました。これが株式市場のさらなる打撃となったことは言うまでもありません。
日銀が当時狙っていたのは、地価バブル退治でした。当時、金融緩和と好景気の長期化で不動産価格が急上昇、庶民にとっては「働けど働けど」自分の家を持つことが難しくなっていたのです。当時の景気の良さについても「庶民は、家・マンションなどの価格が上がり過ぎて買えないので、やけくそ気味に高級車等を買っている」と指摘するエコノミストもいました。地価は株価が崩落した後も上げ続けていたのです(C4参照)。
そこで登場してきたのが、日銀プロパーで「平成の鬼平」と言われた三重野康総裁です。同総裁は1989年12月に就任、1990年に2度の利上げを断行しました。また大蔵省もいわゆる総量規制(不動産向け融資の伸びを、融資全体の伸び率以下に抑える)を1990年から91年にかけて実施し、地価バブル退治を本格化しました。結局、この総量規制が決定打となり、地価は1991年をピークとして沈静化しました(C4)。
バブル根絶という課題は達成したものの、効き過ぎた総量規制と過剰な金融引き締めが、その後の「失われた20年」の素因となってしまいました。三重野日銀は1991年7月に公定歩合を5.5%に引き下げ、その後も金融緩和を続けましたが「時、既に遅し」でした。
こうして過去を振り返って感じるのは、金融政策の難しさ、そして怖さです。何が怖いのかと言えば、金融緩和や引き締めをしても、その効果がいつ出てくるのか事前には良く分からない、また効果の大きさも良く分からない—という点です。金融引き締めの効果が見られないからといって、調子に乗って引き締めを続けていくと、思いがけない時期に効果が出てきて、しかも過去の引き締め効果が累積的に効いてきて、甚大な悪影響を及ぼしてしまうということもあるわけです。
白川方明前総裁の政策は「Too late、Too small」とよく言われました。一方、今の黒田東彦総裁には「大胆過ぎる」という批判もありました。慎重が良いのか、大胆が良いのか–一概に結論続得られない所に金融政策の難しさ、奥深さがあります。
本日もお付き合い、有難うございます。