※製油所の夜景

石油プラント勤務で感じたカルチャーショック

「工場萌え」という言葉があります。工場やプラントなど、一見殺風景な建造物も夜照明がつくと、昼間とは全く違った異次元の世界の景観を呈します。その美しさに魅了される人が増えてきたようです。私自身は30数年前から、石油プラントの夜景に「萌え」ていました。それが社会人としてのスタートでもありました。今でも石油プラントを見るたびに、社会人一年生だった頃の自分、そして、その時に出会ったある人物のことが思い出されます。

30数年前ですが、社会人として初めて勤務したのは石油会社でした。ちょうとイラン革命後の第二次オイルショックのあおりで景気が低迷していた時期です。当時は、石油会社というと、中東諸国に出向いて英語を駆使して現地の石油相と交渉して原油を開発、あるいは買い付ける—などとカッコいいイメージがありました。そう、落合信彦の世界です。

しかし私が最初に配属されたのは、理科系だったこともありますが、そうした華々しさとは全く無縁の場所でした。まずはプラントの修理、メンテナンスを担当するエンジニアの見習いということで、四日市市にある製油所に配属されました。

1年目はプラントで3交代勤務に就きました。3交代と言ってもご存知ない方が多いと思いますが、石油プラントは、よほどのことが無い限り操業を停止することはありません。24時間、365日ずっと(年一度の定期修理を除いては)操業が続くわけです。というわけで、1つのプラントでは、人を4つの班に分けて、各班が朝7時から15時までの勤務を4日、15時から22時までの勤務を4日、そして22時から朝7時までの勤務を4日やるというサイクルを繰り返します(勤務時間がかわる度に休みが入ります)。一見楽に見えますが、実際に続けていると疲れが溜まってきて、健康管理の重要さが徐々に分かってきました。

東京以外で生活したことが無かったので、現地での生活にカルチャーショックを感じたものです。製油所ということもあり、プラント内には大卒の人はあまりおらず、現地の工業高校卒の人が多かったのですが、そうした方の話題も、本社にいる人々とはかなり違っていました。プラント内での話題といえば(私の偏見もあるのでしょうが)麻雀、競馬、ゴルフ、高校野球、プロ野球、呑むこと—に限定されていたという印象があります。

未熟さゆえに師を理解できず

1年ほど3交代勤務を続けた後、大卒組は日勤にかわるのですが、そこでプラント内のモーターやタービンなどの機械の修理・保守を担当する係に配属されました。そこで私の直属の上司として指導して頂いたのが北浜さん(仮名)という方でした。

北浜さんも地元の高校を出て勤務していた方で、私より10年ほど年上でした。非常に仕事熱心で、そしてプライドも持っていた方でした。職人気質というやつですね。製油所内には数えきれないほど多くの機械がありますが、驚いたのは、そのベアリングとかネジとかの部品の型式を、彼がほとんど暗記していたことです。係の中でも彼のそうした知識はかなり重宝されていたようです。

彼は私にも「少しずつ部品の型式を覚えていかなあかんよ」(四日市の言葉はなぜか名古屋弁よりも大阪弁に似ていました)と言っていました。しかし当時の私は世間知らず、経験不足の上に非常に生意気な人間でしたので「ベアリングの型式など説明書を見れば載っているではないか」と理屈を言って、覚えようとはしませんでした。今思い出すと自分の身の程知らずに恥じいるばかりです。当然、仕事にも身が入りませんでした。

おそらく北浜さんは、私にも機械係での仕事の深さ、素晴らしさを伝えたかったのでしょう。色々と教えてくれようとしていました。しかし私があまりにネガティブな態度だったために、早々に諦めたようです。私も彼の言葉をうるさく感じて、結局一度も一対一で呑んだり、話したりしたことはありませんでした。

その後、私は会社勤務を始めて2年もしないうちに退社しました。最近も、若い人が入社しても3年くらいで辞めてしまうという苦情をよく聞きますが、私よりはまマシということでしょう。しかし、入社したばかりの若手がすぐに辞めてしまったことで、北浜さんの責任を問う声も会社内にはあったでしょう。かなりご迷惑を掛けたはずです。私の方といえば、北浜さんに感謝の言葉を言うこともなく、次の目標を目指して淡々と去っていきました。


20年後に気付いたこと

その後、私は外資系通信社で記者として経済記事を書くようになったのですが、石油会社を辞めて20年ほど経った或る時、ふと北浜さんのことを思い出しました。そして実は彼は「本当のプロ」だった—という事実に気づかされました。北浜さんは高卒ですので、大卒に比べれば当然、機械などの知識も限定的です。しかし彼はその事実を認めたうえで、会社に対してできる最高の貢献を、色々と彼なりに工夫しながら、しようとしていたのではないか—ということに気づいたのです。部品の型式を覚えるという行動もそうしたプロ根性の一端だったのではないか—と思い当たったのです。

当時はまだ私の友人がその製油所で働いていたので、彼に頼んで、北浜さんに会いたいという旨を伝えてもらいました。そして、名古屋に出張があった時に四日市製油所に立ち寄りました。北浜さんとは20年ぶりの再会でしたが、私の昔の無礼な態度、心無い辞め方を詰ることもなく歓待してくれました。有難いことでした。

自分の不明さ故に、北浜さんのプロ根性、素晴らしさに20年以上も気づけなかったわけです。情けないことですが、遅ればせながらも気づけて良かったと思いました。それ以後、彼とは交流が続いています。私も人生の後半に入りましたが、人との出会いの縁、不思議さを感じることが少なくありません。今回は私的な昔話になってしまい恐縮です。しかし、こうして振り返ってみると、人生って色々起伏があった方が、後で面白いかもしれませんね。

本日もお付き合い、有難うございます。