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越智通雄氏が亡くなった。経済政策に身を捧げた政治家だった。
越智氏を知るようになったのは、1972年に当時私が住んでいた東京3区(世田谷区、目黒区)から彼が出馬したことが切っ掛けだった。
大蔵省(現財務省)官僚出身、福田赳夫元首相の娘婿というエリートである。選挙中は「上から読んでも、下から読んでもオチミチオ」として親しまれた。
彼に選挙区を譲ったのは賀屋興宣氏。大蔵省人脈だったのだろう。賀同氏は戦前戦中に大蔵大臣を歴任、海軍の山本五十六と殴りあったという逸話もある硬骨漢だった。
これまでのブログでも書いてきたように、私が経済記者時代に最も長くお世話になったのが経済企画庁(現内閣府)だった。
自然、同庁の幹部の方とも親しくさせて頂いたが、昔の苦労話を聞かされることも時折あった。その一つが経企庁長官を務めた時期の越智氏に関するものだった。
この話は元読売新聞記者の岸宣人氏の「経済白書物語」に詳しいので、それを参照しつつ話を進めたいと思う。
1990年11月、越智氏は2度目の経企庁長官就任を果たした。
今となってはバブルが崩壊しつつあった時期ということになるが、当時話題になっていたのは、1986年11月から始まった「バブル景気」の拡大期間が、イザナギ景気(1965年10月―70年7月、57カ月)を超えるか否かという点だった。「イザナギ超え」を果たせば、戦後最長の景気拡大の記録を塗り替えることになる。
この「イザナギ超え」宣言に執念を燃やしたのが越智長官だったというのだ。彼の岳父である福田赳夫氏が「イザナギ宣言」時の大蔵大臣だったことも影響したようだ。
しかし実際には、景気判断の目安となる景気動向指数(DI)の一致指数は91年の4,5,6月と3カ月連続で50%を下回るのが避けられない情勢だった。当時、一致指数が3カ月連続で50%割れとなった場合、景気後退局面に入ったと判断するのが暗黙の了解だった。
つまり素直にデータを読めば、景気は既に後退局面に入っているので、バブル景気の「イザナギ超え」は無いという結論になる。
DIは鉱工業生産など複数の経済指標を組み合わせて算出されるのだが、その構成指標は数年に一度、経済実態を正確に反映するために見直される。
越智長官はDIが採用している指標に「納得がいかない」として、DIを構成する経済指標の見直しを示唆したというのだ。イザナギ超えを自分が宣言したいという執念のなせる業というべきか。
新たに採用される指標如何によっては、一致指数が50%超えを達成する可能性はある。しかし経企庁幹部によれば、当時使っていたDIに特に問題は見られなかったということだ。
こうした政治家からの圧力は必ずしも珍しいことではない。現在では「歴史に残る偉大な総理」として高く評価されている田中角栄氏も総理大臣時代に日銀に圧力をかけて、景気拡大継続を演出するために、金融引き締めを遅らせたという話も聞いたことがある。
結局、越智氏が長官在任中には、DIの構成指標見直しは行われなかった。91年11月に越智氏が経企庁を去ったためだ。
後に「バブル景気」の拡大期間は91年2月までの51カ月とされ、イザナギ景気の57カ月を超えることは無かった。イザナギ超えは「イザナミ景気」(2002年1月―08年2月までの73カ月)まで待たなければならなかったのである。
もし越智氏が当時、横車を押してDIの見直しを強行していたら、あるいは、より長く長官の椅子に留まっていたら、1990年代に景気のイザナギ超えが実現していたかもしれない。そうなっていたら、越智氏の経歴にも「イザナギ超え」を宣言した経企庁長官という一行が入ったことだろう。
しかし私は今、越智氏が無理をしてDIの見直しを強行することが無くて良かったと思っている。冥途に旅立った越智氏はどう考えているのだろうか。
私は選挙の時に越智氏に投票したことはあったが、彼と直接の面識はない。しかし越智氏のこのエピソードは、経済記者だった私にとって非常に印象深いものだった。ご冥福をお祈りしたい。
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