かつて宇野宗佑という総理がいました。それを知っている人は、よほどの政治好きか、50歳を超えている方が多いと思います。

その宇野氏の名前が久しぶりに出てきました。おそらく30年ぶりくらいです。

最近公表された外交文書によれば、1989年に勃発した天安門事件(中国共産党が民主化運動を武力で鎮圧、多くの死傷者がでた)に対して、G7各国が同年のサミット(先進国首脳会議)で中国を非難する決議の採択を目指していましたが、日本がそれに反対していたというのです。

日本は「改革・開放政策を続ける中国を孤立化させてはいけない」と主張したとのことですが、その時に日本の総理としてサミットに出席したのが宇野氏でした。

尖閣の領有権が中国の艦船によって脅かされる、中国の外相が来日して記者会見で尖閣は中国領と明言する、日本の外相は卑屈な笑みを浮かべるだけ-という現在の状況を考えれば、1989年の日本の姿勢は結果論としては明らかに失敗だったということになります。

また発表された文書によれば、当時の英国のサッチャー首相が将来の香港について「懸念」を示していたことも明らかにされています。現在の香港の状況を見れば、同首相の慧眼に驚かされるばかりです。

ツイッターを見ていたら、当時の日本の対中姿勢について宇野氏を批判するものも散見されました。

当時の対中姿勢については最終的に総理だった宇野氏が責任を負うというのは当然です。しかし当時の政権の内情を考えてみれば、宇野氏に全責任を押し付けてしまうのには抵抗があります。個人的に言えば、宇野氏に対して「酷」とさえ感じます。

何故なのか? まず当時の宇野総理は、縦横無尽にリーダーシップを発揮した安倍晋三前総理とは、全く違った立場にいたということがあります。

どういうことかと言えば、当時の宇野総理には自らの責任で決断する実権はあまり与えられていませんでした。彼のうしろで実権を握っていたのは、宇野氏の前任者である竹下登元総理であり、その後援者の金丸信氏らでした。

田中角栄元総理は現在、総理として高い評価を受けていますが、ロッキード事件で自民党を離党後も、1970年代後半から80年代前半にかけて、自民党最大派閥の領袖として君臨しました。当時はそういう角栄氏の行動には批判も多かったのです。

角栄氏は、自らの派閥からは総理を出さず、他の弱小派閥の人材を総理に祭り上げ、それを後ろから操るという方法をとっていました。角栄氏が病に倒れたあと、彼の派閥と手法を継承したのが竹下氏らだったのです。

大平正芳氏から始まって宮澤喜一までの自民党の各政権は、多かれ少なかれ角栄氏、竹下氏、金丸氏、そして現在も活躍中の小沢一郎氏ら、田中派の強い影響下にありました。

また日中国交正常化を1972年に果たしたのが角栄氏であり、彼の派閥では親中路線が継承され、竹下氏らもその路線も受け継ぎました。この路線は現在の二階俊博自民党幹事長らに受け継がれています。

このように宇野氏のバックには親中一色の竹下氏らがいたわけです。こうした点を考えれば、89年の対中制裁決議に宇野氏が本心から反対したのかは疑問です。彼にしてみれば、後ろにいた竹下氏らの意向を無視することは所詮無理な話だったのですから。

宇野氏は1922年8月27日生まれでしたので、六白金星という星になります。40歳代から頭角を現す晩成型の星です。一白水星、五黄土星、九紫火星ほどではありませんが、比較的政治家向きと言えると思います。同じ星には麻生太郎財務相、立憲民主党の蓮舫氏、実業家の稲森和夫氏がいます。

宇野氏が総理に就任した1989年は彼にとっては「評価運」(努力の花が咲くが、後半が不安定の時期)に当たっていました。

宇野氏は総理就任以前には、当時の中曽根康弘元総理の派閥のナンバー2として活躍。また外相、通産相、防衛庁(当時)長官という重職を歴任しました。実力もあった方だったのでしょう。

その宇野氏にとって総理就任はまさに「努力の花が咲いた」ということでしょう。一方、年後半は「不安定」となり、総理の座を早々に手放さざるをえなくなりました。

辞任の直接の原因になったのが、同年7月に実施された参議院選挙での敗北です。その敗北の要因となったのが所謂「三点セット」でした。

三点セットとは同年4月に竹下氏主導で導入された消費税、竹下氏が辞任した原因となったリクルート事件、そして宇野総理の神楽坂芸者とのスキャンダルでした。

芸者とのスキャンダルは勿論、宇野氏の責任ですが、他の2つは主に前任者に原因があった問題です。結果として、参議院選挙の敗北の全責任をとって宇野氏は総理の座を降りました。

総理の座についたのも、竹下氏、金丸氏らのご都合主義が原因でした。竹下氏が総理を降りた後は、本来ならば、安倍晋三前総理の父君である安倍晋太郎氏が後任になるのが既定路線でした。

しかし安倍氏はリクルート事件に関係していたことに加えて、病気で入院していたことも、あり動けない状態だったのです。

そうした環境の中で、竹下氏らがコントロールしやすい人物を総理として選んだのが、宇野氏であり、その後任となった海部氏、宮沢氏でした。

こうしてみると、宇野氏は、時の権力者によって総理に祭り上げられ、独自の政策をアピールすることもできないうちに、選挙敗北の責任を取らされて辞任に追い込まれたということです。在任期間69日、史上4番目の短命内閣でした。

それに加えて、死んだ後も、30年ぶりに外交文書が発表されるや、対中制裁に反対した責任者として批判を受ける—。時の権力者の意向に翻弄された宇野氏の当時の状況を考えれば、個人的には、何とも気の毒に感じる次第です。

表舞台を降りた宇野氏はその後、96年に政界引退、98年に亡くなりました。

選挙敗北後、宇野氏は去りましたが、これを機会に、将来の総理への道へ一歩踏み出した人もいました。

それが橋本龍太郎氏です。89年の参議院選挙では、自民党幹事長として、3点セットの逆風の中、イメージの低下した宇野総理に代わって孤軍奮闘、選挙戦を戦いました。

イケメンの橋本氏が選挙の大敗に悔しがる姿がテレビで映し出され、その姿が選挙民の同情を誘いました。それが橋本龍太郎という政治家が一般に認知される切っ掛けとなりました。運とは分からないものです。

その後、橋本氏は将来の総理候補として注目されるようになり、96年に念願の総理に座につきました。「去る人あれば、来る人あり」。年末にあたり、人の世の諸行無常を感じる次第です。

六白金星の人とは:1922年、1931年、1940年、1949年、1958年、1967年、1976年、1985年、1994年、2003年、2012年の各年の節分以後、翌年の節分の前日までに生まれた人。
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