会津出身の政治家、渡辺恒三氏が亡くなった。私は記者時代に何人もの政治家との出会いがあったが、忘れ難い人物の一人である。

もう30年程前になるが、私が外資系通信社の記者としてのキャリアをスタートして初めて担当したのが当時の通産省(現在の経産省)だった。当然、週二回行われる大臣会見にも出席することなった。

その持前の愛嬌ある会津なまり、笑顔や人の良さから、当時の記者からも親愛の情をこめて「恒三さん」と呼ばれていた。自分の担当する大臣が人が良く、しかも色々としゃべってくれる人物だったのは新米記者の私にとってはラッキーだった。

記者一年生であれば、当然、試行錯誤の連続。記事を書いてデスクに送ると「こんな内容なら、いらない」とボツにされる。かといって記事にしないでおくと「なぜ記事化しないのか?」と叱責される。

日本の大手マスコミであれば、新米記者は先輩についてまわって、先輩の仕事ぶりから学んでいくのが普通だろう。しかし弱小外資系通信社では、そうした先輩もおらず、事実、通産大臣を担当する記者も私が初めてだったと思う。

恒三さんが通産大臣を務めた1992年は、バブル崩壊後で、日本全体が景気悪化の起爆剤になりうる円高に対して非常に神経質な時だった。91年中は1ドル=130円台で推移していたが、年が変わると急に円高圧力が強まり、92年9月には119円台まで円高が進んだ。

そこで私に「円高について質問しろ」という上司の命がくだった。当然のことだが、何でも初めてのことには緊張する。私もそうだった。たとえ、質問する対象が優しい人情味のある恒三さんであってもだ。

大臣会見が始まり、景気状況を中心に質疑応答が進行する。しかし私はなかなか質問しなかった。これには2つの意味があった。一つには、誰か他の記者が質問してくれないかな-という怠惰な期待だ。

もう一つは、できれば特ダネを独占したいという気持ちだ。恒三さんが何か記事化に値するような重要な発言をした場合、ライバルの通信社の記者は、速報を打つために、会見室を飛び出していくことが多い。

会見室内にライバル社の記者が居なくなった状態で、為替の質問をして、恒三さんが答えてくれれば、注目度の高い円高の速報を独占することができるというわけだ。

だが、その日は誰も為替の質問をしなかった。しかたなく会見の終わり間際に恐る恐る、記者として初めての質問をした。私の声がかすれたせいか、小さかったせいかは分からないが、恒三さんは中々私の質問を理解してくれなかった。

ただ、こちらもここで引き下がるわけにはいかないので、決死の思いで質問を続けた。

ついに恒三さんは質問の趣旨を理解して、答えてくれた。「私は1ドル、120円くらいが良いと思っています」と。

為替動向についての感想だけでなく、特定の数字を挙げてくれたのは、恒三さんのサービス精神のなせる業だったと今でも思っている。

大臣が円高など為替について語る場合には「円高が急過ぎる」「景気への影響が心配だ」など抽象的なコメントが一般的であり、特定の為替レベルについて数字を交えて言及することは極めて異例だったのだ。

そのため、会社からは「大臣の口から、特定の為替レベルを引き出した」ということで評価され、私も駆け出し記者として少々の自信を持つことができた。

私にとって、通産大臣が思いやりの深い、話好きな恒三さんだったことはラッキーだった。これが後に通産大臣になった橋本龍太郎氏だったらどうなっていたことか、あまり想像したくはない。

恒三さんはその後、小沢一郎氏、羽田孜氏らとともに自民党を飛び出し、新生党の幹部となった。その新生党を中心に細川護熙政権ができ、非自民の政権が1年ほど続くことになる。

ここで再び恒三さんとの出会いがあった。細川政権は新生党、日本新党など8党派の集合体だったので、意思決定が遅く、政策すり合わせのための会合が頻繁に行われていた。

恒三さんは各党との交渉役をよくやっていたが、他人の意見を容れる度量をもった人情派の彼は適役と言えただろう。

当時、8党派の政策会合は国会議事堂内で行われることが多かったが、会合の行われている部屋の外では、多くの記者が何らかの発表が行われることを期待して待機していた。

そんなある時、会合室から恒三さんが急に出てきて、速足で歩き始めたのだ。当然、記者の多くがそれを追った。しかし恒三さんが「トイレに行くだけ」と言ったので、多くの記者は戻ったが、私はそのまま恒三さんについて行った。

なぜか? ライバルの外資系通信社のS記者もついていったからだ。もし恒三さんが何かしゃべれば、特ダネの独占を他社に許すことになってしまう。当時の外資系通信社間の競争はそれほど熾烈だったのだ。

恒三さんは、自らの発言通りにトイレに入っていった。私もライバル社のS氏もトイレの中にまで深追いはせず、外で待っていた。

恒三さんはトイレから出て来ると、私とS氏にニヤッと笑いかけて「日本の政治は時間がかかる」と一言残して会議室に戻っていった。

その日の会合も記事にするような内容もなく、記者は無駄に時間を費やしたということになったが、恒三さんの一言には会津武士の思いやりを強く感じたものだ。

恒三さんは自民党竹下派に属していた時には、小沢一郎氏らとともに七奉行と称された。

七奉行のうち、小沢、羽田、奥田敬和氏、そして恒三さんが自民党を飛び出して、新生党の中核となった。一方、橋本、小渕恵三氏、梶山静六氏の3氏は自民党に残った。

当時、自民党を割ってでた小沢氏らは、政治改革の意気に燃え、非常に輝いて見えたものだ。

しかしあれから30年程経って振り返れば、飛び出した4人のうち総理となったのは羽田氏ただ一人。しかも在任期間は60日程度に過ぎない。

一方、自民党に残った3氏のうち、橋本、小渕の2人は総理となり、梶山氏のご子息も安倍政権で経産大臣として重責を担っている。人間の運命の微妙さを感じないではいられない。

新聞のある評伝によれば、恒三さんが自民党を飛び出したのは、必ずしも政治改革を成し遂げたいという強い意志があったわけではなく、小沢、羽田両氏との友情を重視したためだという。

「恒三さんだったら、ありそうなこと」と感じる。

「列島改造の田中角栄」「行政改革の中曽根康弘」「郵政民営化の小泉純一郎」「憲法改正の安倍晋三」と、高邁な目標を掲げて、その実現にばく進する政治家もいる。

しかし恒三さんはそういうタイプの政治家ではなかった。ただ、記者を含めて会う人に、そこはかとない暖かさを与えてくれる人だったことは間違いない。

恒三さんの愛嬌ある笑顔、会津弁の語り口を懐かしく思い出す人は、私だけではないだろう。合掌。