1991年:幻の「いざなぎ」超え

—経済企画庁〈現在の内閣府〉記者クラブに初めて足を踏み入れたのは1992年頃だと思います。それ以来、経済記者として経企庁・内閣府に頻繁に出入りすることになり、当時の幹部の方々にも随分とお世話になりました。景気の仕組みの面白さもここで勉強させて頂きました。

「経済白書物語」という本があります。発行当時は官公庁・民間のエコノミストの間では評判になったものです。その中に景気判断について面白い話があるので紹介したいと思います。私が経企庁記者クラブに入る1年ほど前の話。著者の岸宣仁氏は1949年生まれの読売新聞の記者ということなので、私も経企庁時代に庁内ですれ違ったことくらいはあるかもしれません。

—その本によると、1991年当時、経企庁内で最も注目を集めていたのが、景気拡張期間の話でした。それまで戦後の景気回復期で最長のものは高度成長期の「いざなぎ景気」(1965年11月—70年7月:57カ月)でした。

—問題となっていたのは1986年12月から始まったいわゆる「バブル景気」が「いざなぎ」を超えるか否か—という点でした。1991年1月の時点で拡張期間は50カ月に達していたので「いざなぎ」超えまであと8カ月というところまで迫っていたわけです(図1)。

—ところが同年の景気動向指数(DI)の一致指数は3,4,5月と3カ月連続で50を下回ることが不可避の状況になっていました(景気判断指標としてCIが使われる以前の話です)。当時、3カ月連続でDIの一致指数が50を下回ると、景気拡張が途切れたサインとみるのが暗黙のルールでした。というわけで、経企庁内部では「いざなぎ」超えは難しいとの見方が広がっていたようです。

—しかし当時の経企庁長官である越智通雄氏は「DIの採用指標に納得がいかない」ということで「いざなぎ超え」を目指して、DIの採用品目を変更すべく私的な勉強会を開催していたというのです。構成品目を変更することで、まずDIの3,4,5月の50割れを回避し、そのうえで景気拡張期間の57カ月超えを狙うという戦術です。



※越智元経企庁長官

—越智長官にしてみれば、「いざなぎ宣言」をした当時の大蔵大臣だった彼の岳父の福田赳夫氏に倣って、経企庁長官在任中に「いざなぎ超え」を宣言したい—という野心があったようです。

—残念ながら、越智氏の野心は実らず、経企庁長官を91年11月に辞することになり、DIの見直しも行われませんでした。結果として「バブル景気」は1991年2月までの51カ月にとどまり「いざなぎ超え」は水泡に帰しました。「いざなぎ」超えは、小泉純一郎総理在任中に始まった「いざなみ景気」(2002年2月—08年2月:73カ月)までお預けとなったわけです。

—越智長官の強引な手法は別としても、DIの見直しは4-5年に一度あることで、けして異例のことではありません。越智氏がもっと長く長官を務めていたら、あるいはDIの見直しがもっと早期に実現していたら—「いざなぎ超え」は1991年に実現していた可能性もあったわけです。まさに乾坤一擲。

—越智氏はその後、金融再生委員会委員長を務めますが、金融機関に対して「手心」を加えるような不適切発言もあり辞任に追い込まれます。その後の選挙でも落選、2003年に息子に選挙区を譲って引退しました。

—かつては大蔵省エリート官僚、そして福田赳夫元総理の娘と結婚、将来を嘱望された人にしては寂しい引き際となりました。越智氏は当時私が住んでいた選挙区から出ていたこともあり馴染みがありました。それだけに同氏の引退を知ったときには「幻のいざなぎ超え」とともに、人の運命の不思議さ、悲哀、栄枯盛衰を感じずにはおれませんでした。

本日もお付き合い、有難うございます。