端正な顔からの睨みが怖い

記者が震えあがった橋龍会見

これまで森喜朗氏、羽田孜氏と2人の総理経験者について書いてきた。もう一人、どうしても忘れられない総理経験者について書いてみたい。橋本龍太郎氏(以後、橋龍)のことである。

—初めて橋龍に遭遇したのは、彼が通商産業省(今の経済産業省)大臣に就任したときだったから1994年頃である。当時、日米自動車交渉が通産省としての喫緊の課題だった。

—通産大臣担当だった私は橋龍の会見にも出席することになった。先輩記者から彼の悪評は聞いており、ある程度覚悟はしていたものの、実際に対して見るとその厳しさに圧倒された。

—橋龍は会見の席に着くと、チェリー(タバコの銘柄名、今もあるのか?)を開封、一服入れて後、会見となる。身長はおそらく165センチ程度と小柄だが、剣道で鍛えたせいか胸板が異常に厚い。歌舞伎役者を思わせる端正な顔立ちだが、眼光するどく、睨みつけられると相当な威圧感があった。私の記者経験のなかでも、これほど迫力あるオーラを放っていた人物はそう多くない。

—会見となると、当時の最重要課題である日米自動車交渉についての質問が出るのだが、その受け答えがまた曲者である。「自動車交渉の件は如何でしょうか?」というような曖昧な質問に対しては「如何でしょうか–とはどういう意味かな?」と逆襲してくるのである。

—それまで担当した通産大臣は、森喜朗氏にしても渡部恒三氏にしても、記者の意をくんで、記者の言い足りない部分を補足しつつ、丁寧に受け答えしてくれる人が多かった。それに慣れていただけに、橋龍の対応には面食らった。

—記者の方はどうかといえば、各社とも通産省担当のトップ記者は省の問題について熟知しているが、ナンバー2以下となると、そう勉強しているわけではない。週2回の定例会見となれば、ナンバー2以下の記者が出てくることも多く、上司に命ぜられた質問を何の問題意識も持たずに、そのまま聞くことも多かった。

—そうしたナンバー2以下の記者にしてみれば、橋龍に「どういう意味かな」と逆襲されると、元々勉強していないこともあり、追加説明もできず、すごすごと引き下がるしかなかった。

—記者のそうした不甲斐ない態度に対して「質問するなら、もっと勉強してからにして欲しいなあ—」。追い打ちをかけるように記者の勉強不足を詰る(なじる)ことすらあった。「嫌なヤツだ」。口にこそ出さないが多くの記者がそう感じたはずだ。

—しかし職務上、質問しないわけにはいかない。記者のほうも橋龍の逆襲をあらかじめ想定して、事前に十分に勉強してから質問するようになった。橋龍は記者も教育したと言えるかもしれない。

前任の村山氏に当てつけ

—自民党総裁・内閣総理大臣に就任した際も「嫌なヤツ」と感じるエピソードがあった。橋龍は社会党出身の村山富市氏を継ぐ形で総理になったのだが、その際、自分の肖像画のポスターを作った(下写真)。「私は逃げない」。政治家として立派な心掛けだ。しかし、これも前任者の村山氏に当てつけているなと感じざるをえなかった。

—というのは、村山氏は社会党だけでなく、自民党・新党さきがけにも担がれる形で総理となったのだが、総理ともなれば現実問題に対処するために、社会党本来の理想主義的な主張を曲げなくてはならいないことが多々あった。その結果として、社会党は古くからの支持者を多く失うこととなり、参議院選挙でも大敗した。加えて阪神淡路大震災、オウム事件などでも揺さぶられた。村山氏が自主的に退陣したのは、こうした事態に嫌気がさしたから、つまり政権を投げ出して逃げだした—と見る向きも当時は多かったのである。

—橋龍にしてみれば「前政権とは違う」ことを強調したかっただけかもしれないが、ここでも彼の「辛辣さ」を強く感じたものだ。

自動車交渉で米国と対等にやりあう

—橋龍とは冷酷無比な男–との印象をもたれた方も多いかもしれない。そういう面は確かにあった。しかし、それだけであれば、彼が死んで久しいこの時期にこんな文章を書くことは無かったろう。後年、総理にまで上り詰めたほどの人物である。敵に回せば怖いが、味方にすれば、これほど頼もしい人物もいなかったのである。

—彼の手腕が存分に発揮されたのは、1990年代半ばの日米自動車交渉においてである。交渉がヒートアップした1995年は日本も大きく揺れた。まず1月に阪神淡路大震災が、3月にはオウム真理教によるテロが発生する。

—そうした中、カンター通商代表率いる米国の主張はめちゃくちゃなものだった。日本の自動車メーカーが使用する部品の一定割合を必ず米国メーカーから買えと数値目標を押し付けてきたのだ。自由貿易の原則を無視した暴論だが、原則論を主張する日本側は押しまくられた。


カンター代表:数値目標を強く要求

—私も取材中に、日本が自由貿易の原則を打ち捨てて、数値目標を受け入れてしまうのではないか、との強い危機感を持ったことが何度もあった。それほどカンター代表の押しはすさまじいものがあった。そうした中、為替相場は1995年4月19日に1ドル=79.75円と突如として過去最高値を記録した。これは2011年夏に破られるまで、最高記録として長く君臨した。1日だけの急速な円高は、自動車交渉決着にむけての米国から圧力とも言われたが、今もって真相は不明である。

—自動車交渉は1995年4月6月に最終決着となったが、驚いたのは、通産省が発表した内容と米国大使館が発表した内容が異なっていたことだ。発表文書の中にいくつかカッコがあるのだが、通産省発表の文書ではそのカッコ内は空白になっている。一方、米国の文書には数値が入っていた。数値目標については結局、最終的な合意が得られず、お互いの国内世論をなだめすかす形で、日米で異なった発表内容となった。

—当時の米国側の見境の無い圧力を考えると、交渉事に弱い日本があれほど頑張れたのは橋龍のおかげではなかったか—という気がする。他の政治家ではそうはいかなかったろう。そういった意味では橋龍が交渉を担当したのは日本にとって幸運だった。彼の貢献は非常に大きかったと言えるだろう。交渉決着後、橋龍が米国のカンター代表に竹刀をプレゼントしたのは印象的だった。「矛を収める」ということか。

—自動車交渉は玉虫色の決着だったにも関わらず、その後、自動車問題が米国から蒸し返されることはなかった。交渉決着以後、米国での日本の自動車メーカーの米国での現地生産は順調に伸び続けている(図1)。







※2010年の落ち込みはリーマンショックによるものと見られる

米国講演で米国債・株式相場が暴落

—その後、橋龍は総理にまで上り詰めるが、1997年6月、米国での講演で「米国債を売ろうという誘惑に駆られたことがある」と発言。当時、日本は米国債の、米国外における最大の所有者だったため、この発言は効いた。米国債が売られ金利は急騰、株価は暴落してしまったのだ。

—橋龍以後、日本の政治家でこれほど危険な発言をした者はいない。米国は橋龍を改めて「危険な政治家」と認識したことだろう。橋龍は総理退陣後、日歯連の不正献金疑惑が渦巻くなか政界を引退、2006年に多臓器不全で68歳の生涯をあっけなく閉じてしまう。あれほど心身剛健だった男がこれほどあっけなく死んでしまうとは–。私も当初信じられない思いだった。そのため、米国に殺されたとの噂は今でも根強い。米国にとって橋龍は最期まで「嫌なヤツ」だったのだろうか。

合掌。

本日もお付き合い、ありがとうございます。