※ビビるピース綾部氏

渡米を直前にしてビビる

お笑いグループ、ピースの綾部祐二氏が4月に予定しているニューヨーク行きを前にビビっているようです。また、そうした彼の言動がお笑いネタにもなっているようです。「情けないヤツだ」という見方もあるでしょう。しかし私はどうしても、彼に対して辛辣にはなれません。というのは、彼の今の姿は30数年前の自分の姿だからです。

1983年初頭、私は2月末のニューヨークへの留学を前に、今の綾部氏のようにビビッていました。友人が向こうにいるとはいえ、2-3年向こうに行って、本当にやっていけるのか? 勉強の成果をあげられるのか? そんなことを考えるうちに、渡米する自信が無くなってきてしまいました。

ここで一つ断っておきたいのですが、80年代前半は今のようにメール、ラインなどという便利なものは一切なく、ニューヨーク在住の友人とのやりとりも航空便の手紙に限られていました。勿論、国際電話はありましたが、今からは想像出来ないくらい高価でしたので、そうそう使うことはできません。外国に行くのも、今ほど気楽ではありませんでした。

私は会社を辞めての留学でしたし、理科系から、国際政治経済分野へキャリアチェンジをしたいと考えていたので、言わば「背水の陣」。普通の学生に比べると悲壮感、必死さがあったと思います。

しかし、いざ渡米のスケジュールが決まるとビビり出しました。学生ではない社会人としての決断ですから、それなりの重みがあります。「嫌になったからやめた」というわけにもいきません。そこで、何とかして行かなくていい理由が見つからないものか—という逃げの心境になりました。例えば、近い親類の人が病気に倒れるとか—。そうなれば、誰かが「留学など行っている場合ではないぞ!」と言ってくれるかもしれない—と淡い期待をしていたわけです。

ニューヨークに着いて一段と落ち込む

しかし結局そうしたハプニングも無く、また多くの友人が激励に駆けつけてくれたこともあり「これはもう行くしかない」と腹を括りました。

ジョンFケネディ空港についたのは、夜でした。当時、アメリカに留学する学生を迎えてくれるサービスがあったので、その人に友人が勤務するマンハッタンにある日本食レストランまで自動車で連れて行ってもらいました。

しかし、自動車の窓から見える外の様子をみて、暗澹たる気分になってしまいました。まず街が暗い。ニューヨークの街(NYC)は、ナトリウム灯が多いせいか街全体が黄色く見えます。当時の日本では、まだナトリウム灯は少なく、白色灯が主流でした。それに比べると、黄色っぽい街はスラム化して見えたのです。人々の表情も暗く、スマイルが見られません。彼らがしゃべる英語も早過ぎて、ほとんど聞き取れません。さらに、この時期のNYCは相当な寒さです。こんなところで何年も自分はやっていけるのだろうか? 正直そう思いました。

日本食レストランの友人は歓待してくれて、その夜はクイーンズにある彼の家に泊めてもらいました。有難いことです。今でも、この恩は忘れることができません。しかし、それでも到着後に感じたショックからは中々立ち直れませんでした。

自分ってこんなに弱かったのか

翌日はいよいよ語学学校がある大学に行くのですが、クイーンズからタイムズ・スクエアまで地下鉄で行き、そこで別の地下鉄に乗り換えてマンハッタン最南端のバッテリーパークまで行く予定でした。しかし、乗り換えがうまくいかず、一度地上に出ることにしました。

いざ地上に上がってみて唖然!8番街の42丁目。後で知ったのですが、当時このあたりはポルノショップが軒を連ね、麻薬の売人が闊歩する危険なエリアだったのです。ヤバそうな人と目を合わせないようにしながら、戦慄する心を抑えつつ、何とか地下鉄を乗り換えて南に向かいました。その後、マンハッタンの南に位置するスタテン島行きのフェリーに乗りました。自由の女神を横に見ながら南下です。


※修理中の自由の女神。1983-84年頃

スタテン島に入ってから、大学まではバスですが、このバス停がなかなか見つかりません。何しろ、バス停に「〇〇行き」という表示が無いのです。バス停らしい棒が立っているだけでした。フェリーを降りた多くの人は、自分のバスに素早く乗ってしまい、私だけが、薄暗く危険な感じのバス乗り場に一人残されてしまいました。質問しようにも、まわりに誰もおらず、どうにもならない状況。「本当に大学にたどりつけるのだろうか—」。不安感が増幅してきました。

友人の家を出たのは朝でしたが、大学に着いた時には既に夕方になっていました。大学の寮で部屋が当てがわれて、やっと自室で落ち着きました。しかし心身は疲労困憊。言葉がよく分からない、街に慣れていないという理由があるにせよ、大学に着くまでに、これほど疲労している自分を顧みて、強い絶望感、無力感に襲われました。こんな状態でやっていけるのだろうか? 留学など自分には所詮無理だったのではないか? 頭がおかしくなるのではないかとも思いました。当時、フランスに留学してノイローゼとなり、恋人の人肉を食って逮捕された日本人がいたのです。

「自分って、こんなに弱かったのか—」。自分の無力さを思い知らされて、当初の「アメリカで実力を付けて凱旋帰国したい」という思いは、割れた風船のように萎んでいきました。

地獄に仏

寮に入ったその日に、日本から来た学生の一団に会うことができました。「留学を成功させたければ、日本人同士でつるんではいけない」と散々言われていましたが、それどころではありません。まさに「地獄に仏」でした。彼らとビールを飲み、ピザを食いながら話すうちに徐々に落ち着いてきました。ラジオからHall&OatesのManeaterが聞こえていました。

私もここに至って決心しました。「とにかく一週間だけ頑張ってみよう」と。もし一週間たっても、この絶望感、無力感から立ち治れなければ、自分には無理だったと白旗を挙げて、日本に帰ろうと決めました。

一週間は瞬く間に過ぎました。外国人の友人もできて、語学のクラスも始まり、夢中のうちに時間が経ちました。一週間で帰国しようなどという気持ちも、いつのまにか雲散霧消していました。結局は「案ずるより産むが易し」ということだったのでしょうか。

その後3年間NYCにとどまり、勉学では自分なりの成果を上げることができました。ツイていたというべきでしょう。あれから30余年になりますが、今でも当時の心細さを昨日のことのように思い出すことがあります。今にすれば、貴重な体験です。

来年まで苦労、再来年から成果も

自分の体験談が長くなってしまい恐縮です。こうした経験があるので、比較的安定した地位を獲得していながら、それを打ち捨てて未知の世界にトライしていく綾部氏のような人を応援したいという気持ちがあります。

綾部氏ですが、1977年12月13日生まれということですから五黄土星という星になります。このブログで取り上げた中では、ミュージシャンの小沢健二氏、大塚家具の久美子社長が同じ星です。五黄土星の人はパワフルですが、思い込みが強い人が多いので、いかに自分を客観的に見つめることができるかが人生の成否を決めるという印象があります。

今年は「評価運」(努力の花が咲くが、後半が不安定な時)となっています。また来年は「停滞運」(不測の事態が多く、ツイていない時)と、9年周期のドン底に入ってしまいます。ですので、渡米して後、今年後半から来年一杯までは、色々と苦労が多いのではないかと思われます。

しかし来年一杯をやり過ごせば、再来年からは「整備運」に入り、その後数年間は隆盛運に入ります。そのあたりから、晩年運の五黄土星が実力を発揮しだすでしょう。滞在期間にもよりますが、3年以上であれば、再来年くらいからは、ある程度の成果が残せるのではないかと期待できます。

今は昔と違ってコミュニケーション手段も多くあるので、ひどく心が落ち込むことは無さそうですね。とはいえ、長期滞在と短期の観光は違いますので、綾部氏も色々とショックを受けるでしょう。日本とは違って、誰も彼のことを知りませんし、英語ができないと全く相手にされないこともあります。

敢えてNYC行きの先輩として言わせて頂くなら「成果を焦るな。気楽に楽しめ」ということです。特に来年一杯までは。もしひどく煮詰まることがあれば、気楽に1-2週間ほど日本に帰ってくれば「やる気」の火が消えることも無いでしょう。今後のご健闘をお祈りしたいと思います。

本日もお付き合い、有難うございます。